2026年7月の月報より
人として自立する大切さを
イエスは教えて下さった。
永幡 豊
聖書には、無数の障がい者が登場しています。1人の無名で生まれつきの視力障がい者が登場してきます。この記事の独自のメッセージは、「彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか」と言った問いかけに対して、イエスが「この人が罪を犯したのではなく、両親でもありません。神の御業がこの人に現れるためです。」と答えた言葉にあります。苦難の中にある人間を過去の罪のなわめによって、さらに追い打ちをかけるのではなく、イエスは未来の可能性に目を注ぐ視点を与えたというわけです。イエスはその人の負っている重荷を見つめ、「人格」ある存在として取り扱われ目に泥を塗り目が見えるようにします。
最近、「障がい者には、人格があるのか?」といった不思議なある問いかけを耳にします。相模原市で起きた知的障がい者 19人殺傷事件は典型的な事件と言って良い。また、未だに292万人の障がい者が就労希望があるのに仕事に就けないのは偏見・差別が現実にあるからであり国も本気で動いていません。残念なことです。
私自身、49歳(先天性)時、柔道で怪我をして脊髄を損傷し「障がい者」になってしまいましたが、それでも柔道仲間と思っていた人や親戚で良くしてもらっていた人から本当に冷たい言葉を返されました。柔道では、当たり前にやれていた試合の審判さえやることを許されませんでした。教員最後の5年間は担任も許されませんでした。一番、きつかった言葉は「先祖のたたりだ」と言われた時でした。私は、イエスの言葉を知っていたので、生きる勇気が与えられていたので精神的病に陥りませんでした。
聖書に出てくる視力障がい者は、イエスによって開眼されたのでしたが、それが単に身体的な開眼だけでなかったことが、その後の彼の生き方から分かってきます。力強く生きるのです。ユダヤ教の学者パリサイ人たちは、この元障がい者の両親を引っ張り出して問いただします。「この人は本当にあなたがたの息子で、生まれつき目が見えなかったのか。そしてどうして見えるようになったのか」と。両親は息子の生まれつき、障がいがあったことを認めるのですが、一番大事な部分は口をつぐんでしまいます、「あれに聞いてください。あれはもう大人です。自分のことは自分で話すでしょう」と。
聖書はこう記しています。「ユダヤ人を恐れていた。イエスをキリスト(救い主)と告白する者がいれば、ユダヤ教の会堂から追放すると決めていた」からです。このことはユダヤ人社会からのあらゆる締め出し(村八分)を意味していました。
こうしてこの元障がい者は、もう親に頼ることも出来ずに、1人で当時の社会全体を牛耳っていた人たちの前に出て堂々と告白するのです。「ただ1つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」元障がい者は、社会的に自立することになります。イエスは盲目を治療しただけでなく人が障がいを持っていても人として自立する大切さを教えています。
「正しい人ではなく罪人、病人を招くために私は来た」(ルカ福音書5:31-32)